昭和48年02月19日 朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
目に見えるおかげよりも、目に見えぬおかげ、知ったおかげよりも知らぬおかげと。そこで目に見えぬおかげ、又は自分では気がついていない知ってないおかげ。このおかげを、おかげと分からせて頂くと言う事が、愈々信心を分からせて頂くと言う事になる。目に見えないおかげ、又は自分で気がついていないおかげ。それを気付かせて頂き、それを分からせて頂くと言う事が、信心が分かっていきよると言う事になるのです。
信心をして目に見えるおかげ、気付くおかげ。これは誰でも出来る、誰でも分かる信心であって目に見えない、又は気がついていない所に気付かせて頂く。そこに愈々有り難いというものは、大きく広くなってくると思うんです。その大きく広くなってくる、そのおかげを頂かせて頂く為にも、目に見えない、又自分が気がついていないおかげを、おかげと分からせて貰わなければならんのです。
そこで信心しておって、自分の思うようにならない、自分の意のままにならない。その事がだからおかげであると分からせて貰う。信心というものが只自分の思う様になる事の為に信心をしておるという間は、だからそこが分からんのです、いつ迄たっても。自分の念願が成就する事の為に信心をする。所謂おかげを頂く為に信心をするという間は、一番大きな所、一番広い深いおかげの事を、是ではいつ迄たっても分からない。是は実際の問題と言う事になりますとね、本当にそれは切ない程に難しいです。
例えば自分の一番最愛の家内とか、最愛の子供とか。それが例えば夫の言う通りにならなかったり、又は親の言う通りにならなかったり、これは一番身近な問題ですよね。これだけお願いをさせて頂いておるのに、これだけ思うておるのに、思うようにならない。そこでですね、それをどうしてもどこに御神意、御神慮が有るか分からない訳です。そこにいつも心の中に不足を感じたり、又は不満に思うたり、愚痴不足になってくる訳です。実際は、目に見えないおかげなのだけれども。
自分が気がつかないおかげなんだけれども、おかげとハッキリ、頂ききらんのです。それが実に切実です。これは私で言うなら家内の場合であるとか、子供の場合にであるとか、皆さんの場合でもそうですよ。本当にこういう信心させてもらや、こういうおかげが受けられるのにと思うても、そういう信心についてこない。切実にそれをやはり一番身近であれば、身近な者程、それを切実に感じます。
そこで私共は昨日の御理解じゃないですけれども、大きな信心をしなければ出来んのです。もうそこに行きづまろうごとある。切実にその事だけには、もう行きづまっておる、もう仕方がないと手を上げたいごとある。そして心の中にはです。切実に不足不満を感じるのです。それが身近な者であればある程感ずるのです。そこで行きづまりのない、大きな信心を、例えばさせて貰うと言う事によって、まぁそう言う事でも、自分の心の中に泳がせれる。自分の信心の小ささその位の事も。
自分の中に泳がせきらないという事が悲しい訳です。そこで私は昨日の御理解じゃないですけれどもです。大きな信心とは、私が改まりさえすれば良い、私が修行さえさせて頂けば良いと言う事が、私は大きな信心だと、昨日申しましたですね。子供が例えば私の信心を、夕べも申しましたように、一番大事にさせて頂いておるというのは、私の信心である。その信心を一番大事にしておるというのは、私の朝の時間である。
その親が夫が一番大事にしておる信心であると言う事を、彼やら彼女やらは、気がついてないのかも知れない。けれども私にとっては、是が一番大事でありそれは一日の内に、どこの信心ばいつ頃が一番大事なっで、いつ頃が一番大事じゃないと言う事は絶対無いのだけれどもです。是は私は私の朝の信心を、一番大切にする訳である。そしてそれを四六時中そうありたいと願っておる訳だけれども、中々そうはいきません。
ですからせめて朝の時間だけは、これこそ命のように大事にする。その命のように大事にしておる信心を、切りきざみするようにです、粗末にするとするならです。もうこんなに悲しいこんなに切実にです、情けない思いをする事はない。所がそれはです私の思うておる通りに、例えば昨日の光昭の話じゃないけれども。私の見ておる所では立派であっても、見ていない所で崩したら、もう同じ事ですけれども。私の見ておる所ではいかにも崩しておるようであるけれども。
実際を言うたら崩していないのかも分からない。いや私が気がついていないだけであり、私のまあだ見える世界というものの外に有るのであり、それがおかげと分からせて頂かなければ、愈々大きなおかげの世界というものは、無い事が分かってくる。そこで大きな信心をさせて貰わなければならない、自分の心の中にそれを何でもない、平気で頂けるような泳がせれるような、大きな信心を頂かなければならんけれども。
それが切実であればある程、中々泳がせきらん、矢張りそれを毎日毎日朝の時間になると、あぁ又今日も切りきざまれされるという切なさが有る。そこで昨日頂いた御理解です。そんなら私が修行致しますから、私が改まりますからと、本当にその事によって修行が出来、改まる事が出来るとするとです。初めてその目に見えない所、気がつかなかった所に、私はかすかではあるけれども、お礼が言えるようになるのではないかと思うのです。信心も実に微妙ですからね。
その位の事が、そんなに切実に悲しい事だという風に表現致しますと、これはもう信心が浅かった自分というか、今よりもには全然問題でなかった事がです、段々問題になってくる。その代わりに今迄気がつかなかった、知らなかった事に心の底から、お礼が言えるようになるというのですから。今迄は平気であった事が、平気に過ごされない。そしてそれを、悲しい迄に不足に思い、悲しい迄に不満を感ずる。それは自分の信心を一寸刻みに刻まれておるように、苦しい事であり悲しい事である。
けれどもそこが、凡夫の浅ましさであり悲しさである。所謂それは目に見えないおかげであり、気がつかないおかげであるけれども、そう見感ずるのである。そこでですそんなに切実に切な事であるなら、悲しい事であるならばです。私が修行するより他にないのであり、私が改まるより他にはないとして、改まる事になり修行する事になったらです。それこそ久留米の石橋先生じゃないですけれども。おかげで信心が出来ますと言う事になるのです。不肖の子を持った。
言う事を聞かん家内を持った。おかげで信心ができますと言う事になってくる。その頃に家内と子供の事で申しましたが、家内も子供も自分の思うておる以上の所に信心が出来てくるようになり、分かるようになりおかげを頂いてくれるようになる。そん時に初めて、あぁあれもおかげであったと分かるのです。それが真実の信心が身についてきたという事になるのです。皆さんの中にでも、私は家内と子供の事で申しましたが。それは他の事柄でもよいですよ。
現在みんなが本当に、難儀と感じておる事でいいのです。それが段々信心が分かってくるとです。今迄気にもならなかった、気にも止まらなかったような事が、悲しい事苦しい事になってくるです必ず。ですから今迄気もつかなかった範囲にです。有り難いと感じれれる、思えれる世界が広がってくるのです。だから嫌が上にもおかげは、深い広いものになってくるのです。ですから切実に今難儀と感じておる事でいいのですお互いが。例えばそんなら、子供が病気をしておると。
店が思うようにならない、これでもいいのです。どうしてこんな病気をするだろうか、どうしてこの様な事で難儀な事になるのであろうかと思うとです。これ程信心しておるのにという、いわゆる不足不満がどこの隅にか有るのです。けれども実を言うたら、それがおかげなんです。目に見えない自分が気がつかないおかげなのである。だからここん所を、教祖様は嘘を仰る筈はないのだという頂き方、分かり方をさせて頂いてです。
その難儀と感ずるその事の為に、私が改まりますから、私が修行を致しますからと言う事になってくる。そしてその修行が例えば成就した暁にはです。例えば病気の子供が助かっておるでしょう。不如意であった難儀な問題が、意のままどころか、思う以上のおかげになっておるでしょう。初めてあぁあれもおかげであったと分かる訳です。実を言うたらあれもおかげであった、これもおかげであったと、これは分かっておるのですから。その時点で有り難いとお礼が言えなければならんのですけれども。
そこが悲しい哉凡夫ですから、自分に都合が悪かったり、自分の思うようにしなかったり、難儀な事柄問題になってきたりするとです、それを中々おかげとは頂けない。けれども、その難儀を感ずる悲しさを感ずる時に、私が修行不足である事を分からせて貰い。私が改まらせて頂きますからと、不足であった修行を段々成就させて頂く事になり、私がよりその事によって、所謂おかげで信心がでけますという、信心をさせて頂く時です。初めて、あぁやっぱほんにこれが自分の思うとる通りなるなら。
とても自分は信心な出来はせん。こんな早くから朝参りだん、とても出来んかも知れん。けれどもその難儀を感ずるおかげで、朝参りも出来るこげな修行も出来ると言うてお礼が言えれる。けれどもこのお礼は、かすかなお礼なんです。ややもするとすぐ崩れがちなお礼なんです。それが続くともう次には、もっと大きな不安が心の中にある。又は不満があるのである。そこでおかげで、修行が出来ますという修行をさせて頂いて、その修行が成就した暁にです。
もうそれこそ自分の思いもかけなかった、いうなら夢にも思はなかったようなおかげに転開してくる。本当にこういうおかげを下さる為であったと言う事が分かる。いかに意のままにならないとか、思う様にならないと言う事。目に見えない、気がついてはいないけれども、その事はもっともっと、目に見えたおかげよりも、願って願い通りになったというおかげよりも、それこそ家内が痒い所に手の届くようにやってくれるとか、子供が私の意に対して、私の信心を頂いてくれるとかと言う事以上にです。
思う事以上におかげになってくる体験を頂いた時に、初めてあぁあれは目に見えないおかげじゃったなぁ、それを凡夫とは言いながら、不平不足に思うておった事のお詫びが改めて出来る事になる。そういう精進をさせて頂く事になればです。もうあなたの信心は、本当なものだと、こう仰っておられる訳である。思うようにならぬが浮世。その思うようにならぬが浮世と、相場が決まっておるから、もうそれは仕方がないとしたら、もう一生、その事は思うようにならぬが浮世で終わってしまわなければならない。
信心はその思うようにならぬことその事が、おかげであると気付かせて頂く為の精進をする。私が修行したらよい、私が改まったらよいと言う事になった時にです。思うようにならぬが浮世どころではない、それこそ夢にも思わなかったような、浮世が実現してくる。そこに愈々神様の御神意の深さ、神愛の深さを感ずる事が出来る。これが繰り返し繰り返し、そういう体験を積んでいく所からです。その時点で即おかげと言えれる世界が大きくなってくる。それでもまだ分からない世界に。
不平不足と言うかな、思うようにならん世界が多いと、そこん所にいわば悲しいまでに、その事を心にとめるようになる。これは信心が愈々深まっていっておる証拠である。だからそこを又、おかげであるとハッキリ認識が出来る所迄、高めていくと言う事が、信心を愈々進めていくと言う事になるのです。今日は皆さん一つ、目に見えない所、知っていない所、四神様の御教えの中にもありますように、目に見える所ばかりを大切にして、目に見えない所をお粗末にしております。
と仰っておられる。目に見えない所のおかげをです、いうならば自分の思うようになっていない所、今自分が難儀と感じておる、その事をです、もっともっと大事にしなければならない。もっともっと大事にしなければならないと言う事は、本当にその事を悲しい迄に難儀と感ずるならば、私が修行致しますから、私が改まらせて貰いますからという生き方になる以外にはないごとある。
そこからおかげで、信心が出来ますと、かすかにお礼が言えれるようになる。かすかにでも、その事にお礼が言えれるようになった時点でです。いわば夢にも思わなかった様なおかげの展開が有る。その時に初めて分かるのは、あぁあれもおかげであったと分かる。だから、今感じておる所のこれもという問題もです。おかげであると段々確信が出来れる、おかげを頂いていく事が、信心を愈々進めていく事である。いわゆる真実な信者じゃと仰る、真実な信者を目指して、信心していく事になるのだと思うのです。
どうぞ。